Web版!「Tidak apa-apa」: リレートーク (第7回) |
いつもインドネシアJICAボランティア公式ブログを
ご覧いただきありがとうございます。
今回は、Web版「Tidak apa-apa」として、
リレートークの第7回目をお送りいたします。
<1.応募を決めた瞬間>
小学生の頃、アフリカ飢餓の現場で働くボランティアの姿をテレビで知り、「途上国で人のために働きたい」と思っていました。しかし、なかなか現実味のない夢だけにすっかり諦めていたところ、イギリスへの短期留学をきっかけに幼いころの思いがむくむくと湧いてきて、「就職して結婚してしまうと女性が協力隊に参加するのは難しい。就職はいつでもできるが、途上国でボランティア活動するなら今しかない」と、応募を決めました。
<2.隊員時代の一番の思い出>
すべてが“一番の思い出”といってもいいくらいなので、少し考えてしまいましたが、退任前に企画した生徒の作品展示会です。当時、施設と地域住民との交流がほとんどなく、知的障害者に対する偏見がないとは言えない環境で、施設で訓練を受けている生徒らのありのままの姿を知ってもらいたかったのです。今までは州社会省、郡政府、ジャカルタ日本人会の催しには出展していたのですが、地域の方々に施設の生徒たちがどのような訓練を受け、その結果がどうなのかを公開することはありませんでした。施設長に企画を持参したところ、快諾。それならば、国の社会福祉に関するデータを視覚的に理解してもらう展示も併設しようと提案してくれ、施設長の地域住民へ理解の輪を広げようという思いが伝わってきました。その展示会を目指して、職員、インストラクター、生徒が協力し、準備にあたった時間が本当に貴重な時間だったんだなと改めて思います。展示会場は、施設の体育館。職員が製作したパネルの数々、そして生徒らの作品を効果的に展示してくれました。当日は天候にも恵まれ、たくさんの方に来場していただきました。州社会省の役人、郡政府関係者、地元の名士、地域住民、保護者等。多くの保護者が来場を躊躇する中、田舎から来てくれたある保護者は、観覧後、自分の子供を抱きしめて感動で泣いていました。展示即売会を兼ねていたので、自分の作品が売れていくのを見て生徒たちも満足気。地域の方々からも温かい言葉をいただきました。任期中、職員の方々にはよく私の話を聴いていてもらい、協力していただきました。これも私の前に活動された2人の協力隊員と施設側とで、しっかりとした絆ができていたからだと思います。そのお陰で、活動を全うすることができました。感謝してもしきれません。
<3.帰国後から現在までの道のり>
帰国後1年余り日本で働き、結婚。主人(ジャワ人)が東カリマンタン州にある外資系エネルギー会社に勤めていたため、再びインドネシアへ。駐在員妻のようなニョニャ生活を満喫しました。その後、いろいろあって(長くなるので割愛)主人とともに日本へ帰ることに。2001年2月、地元のインドネシアと取引のある会社に就職。経理部に所属し、昨年4月末まで働きました。元々、下の子が3歳になったらインドネシアへ戻ろうと考えていたので、昨年5月に満を持して移住してきました。6月から就職活動を始め、営業職の求人が多い中、日系電機メーカーの経理部で採用していただき、現在は経理担当取締役のアシスタントとして働いています。前の会社とは業種が違うので、日々新たな事が学べる環境にあり、とても新鮮でやりがいがあります。