生物学とグローバルイシュー(第1回;自然保護) |
私は以前3年間ほど、とある水族館で働いていた。私の担当は魚類と海棲無脊椎動物(サンゴ、エビ、カニ等)だったが、仕事の中にイルカの水中給餌というものがあった。その名のとおり、ダイビング機材をつけて水中でイルカに餌を挙げながら、握手やキスなどの芸をお客さんに見せるという、一見ほのぼのとした仕事である。しかし、この仕事は私達の間ではかなり不人気な仕事のひとつであった。なぜなら、“怖い”からである。彼ら(イルカ)は、雌雄つがいで水槽に入っているが、気が合わないのか交尾までは至らない。そのため、発情期になると彼らは有り余るエネルギーのはけ口を水槽に入ってくる人間にぶつけるのである。思春期の若者がぐれるようなものである。
そんな時期、不運にも当番にあたり水槽の上に到着すると、彼らは、クェーという奇声をあげ血走った目(そういう風に見える)でにらみつけてくるのである。こうなると、水槽に入るのはブルーである。痛い目を見るのは、めにみえている。しかし、水槽の外にはお客さんが待っており、すっぽかすわけにもいかないので、仕方なく水槽に入ると、予想したとおり彼らの突進が始まる。イルカの水槽に入るというと聞こえはいいが、言い換えると“体長4m、体重500kgの気の荒い野生動物が二匹もいる水槽”に入るのである。水の中では、彼らにかなうはずもなく、きりきり舞である。しかし、仕事は仕事、お客さんも見ている。気を持ち直して彼らといつものように握手をしようと右手を差し出すとヤツは当然のように噛み付いてくる。骨がゴリゴリといやな音を立てる。ヤツの顔を見ると“きょうは芸なんぞしたくないんじゃ、はよ餌よこせ”と言っているようにしか見えない。しかしここで餌をあげてしまうと彼らは人を噛むことと、餌をもらえることをつなげてしまい、噛むことが習慣化してしまうのである。
ここからが、タイマン勝負の始まりである。だがお客さんが見ている前で、イルカに暴力なんぞふるったら、FAX用紙がなくなるまでの抗議がくることは目に見えている。といって、ほっておいたら私の手がいかれてしまう。私は私の手を噛んでいるイルカの舌を握るのである。すでに私の骨は悲鳴をあげている。舌をつかんでも彼らはそう簡単には手を離さない。こうなるとガンを飛ばしあいながら、根性比べである。なめられたら負けである。そして、みごと勝負に勝ち手を引き抜くと後は一目散に逃げるのみである。いくら仕事といってもイルカに襲われて死んだら笑い話にもならない。しかし、奴等も欲求不満解消の人間をそう簡単に返すはずもなくフィンを咥え水中に引きずり込もうとするのである。最悪の場合はフィンを水中で脱ぎ水槽から脱出するのである・・・・・。
というような話をすると、よくイルカを水槽に閉じ込めるからだめなんだとか、イルカがかわいそうだ、という反応をされる。まったくその通りである。動物園にしろ、水族館にしろ植物園にしろ野生のものを人間がよりストレスの強い環境に持ってきて見世物にするのである。これら博物館施設の役割としては、レクリエーション、実物教育、環境教育、人工繁殖による希少種保護などが挙げられる。要は、いくら、テレビやビデオが普及しても、インタラクティブに反応のある生の生物を見たいという人間の好奇心は衰えず、また通常の生活では目にすることのない生物を見ることでより環境への関心、しいては環境保護への関心が高まるというのがこれら施設の言い分である。つまり、確かに施設に閉じ込められた生物は個体としてみれば不運極まりないが、自然保護全体を考えると収支はプラスになるという考えである。
しかし、そのためにはその不運な個体達のストレス最小限に抑える義務がこれらの施設には要求されるといえる。しかし実際これらの施設は維持に莫大な経費がかかり、収入増大に力を入れるあまり施設の生物に十分な配慮を欠くこともしばしばある。また、観光客を増やすためにはより珍しいものを展示する必要性にかられ、どのような方法で捕獲したか定かでない生物を購入することも多い。実際インドネシアでは観賞魚捕獲のために爆弾を使い多くのサンゴ礁が破壊されつづけている。これらの観賞魚は日本を含む先進国に輸出されているのである。
一方、動物愛護の言い分はどうであろう。彼らが対象にするのはイルカやアシカ、トドなど海凄哺乳類が主で、貝を閉じ込めてかわいそうだとか、ウニを開放しろなどという苦情は聞いたことがない。なぜか。よくいるイルカを対象にした動物保護論者の言い分はこうである。まず、かわいいからという理由、、、論外である。これでは、ブサイクな人間の存在意義まで問われてしまう。次によく聞くのが、イルカは頭がいいからという理由。これも問題である。イルカの華麗な芸を見ると人は、なんて頭がいいんだろうと思うが、調教方法は至って単純である(もちろん根気とテクニックはいるが)。たとえばジャンプを教えるのは、小さなボールに口をつけると餌をあげ、その高さを少しずつ高くしていくとイルカは知らず知らず餌を求めて飛ぶようになるのである。あとは、その芸を始める前のサインを教え込めばイルカのジャンプの完成である。
確かにイルカは人間の脳より容量が大きく、また大脳皮質のしわも多く構造上、頭はよさそうである。ただ、知能を図る物差しはないのである。人間の知能を計る物差しもないのに、他の哺乳類の知能を定量化するなんて今の時点では不可能である。ちなみにIQというのもアメリカの軍隊の入隊試験で学習能力の進行具合を計るテストに改良を加えていったもので絶対的な知能を計ることはできないのである。限られた情報でイルカの知能が他の生物より優れていると決め付け、それと保護を直接結びつけるのは危険である。大きな脳を持っていない、そして多くの人間の価値観では醜い昆虫類などの保護がおざなりになってしまうからである。
さらに、保護論者の究極、すべての生物を殺す権利は人間にはないと主張する人たち、これはどうであろう。このような人たちの中には、動物性タンパク質を一切とらないベジタリアンもよく見受けられる。しかし、彼らは大きな勘違いをしているのである。植物も生物なのである。あたりまえのことだが、彼らは気づいてないとしか思えない。進化の方向性で植物は葉緑素を獲得し、基本的に動かない生活様式を獲得しただけで、DNA内のコドンと呼ばれる遺伝子コードは動物のそれと同じなのである。彼らは言葉を発することはないが、動物に食べられまいと毒を生産したり、刺をつくったりと、彼らなりに食べられまいとしているのである。さらに言えば、私達は、手を洗うだけで何万という生物を殺しているのである。風邪薬を飲むことは、自分以外の生物を殺すのと同義である。つまり、人間に他の生物の命を奪う権利があるかどうかは別として、生物が生きていくためには、絶対に他の生物の命を奪わなければならないのである。
生物は悠久の時の中で、淘汰の網をくぐり抜け様々な形に進化してきた。そこには、意思はなくそれぞれが、自然淘汰により環境に適応した形質を獲得してきたのである。人間もしかりである。しかし、人間は言葉を生み出し文化を造り、独自の価値観を生み出してきた。その結果自分達の美意識により生物を差別し始めたのである。イルカはかわいいが、ゴキブリは気持ち悪いと、、、私はこれらの人間特有の美意識を否定する気はない。私もイルカは好きだし、ゴキブリは嫌いである。ただ、自然保護にこの考えを持ち込むのは危険である。自然はエコシステムという様々な生物の相互作用で成り立っており人の価値観で偏った生物を保護するのはその他の生物を危険な状態に陥れる可能性があるのである。
たとえば、私の仕事場であるサンゴ礁では、しばしばオニヒトデによるサンゴ礁の食害が問題になる。オニヒトデは、ヒトデの仲間であるが赤と紫の毒々しい体色、体中に生える猛毒をもつ無数の刺、また食用にもならず人間にとっては何の役にも立たずかつ嫌われるには十分な要素を兼ね備えている。また、サンゴはというと、人を楽しませるカラフルな色彩、また陸地を波による侵食から防いだり、体内の植物プランクトンの光合成により酸素を供給したりと、視覚的にも実用的にも人間の保護を受けるのに必要十分の要素を兼ね備えている。そのため、オニヒトデの大発生が起こると人間はサンゴを守るためという大義名分を掲げオニヒトデを狩るのである。オニヒトデは少し傷つけたくらいでは死なないので、みじん切りにするか、陸に挙げ、乾燥させて殺すのである。このオニヒトデの大発生が人為的な影響なのか、自然のサイクルなのかは今のところ不明である。もし、自然のサイクルであるならば、人間の価値観でサンゴ礁のエコシステムを撹乱していることになる。このオニヒトデ狩り問題は賛否両論でいまだ結論は出ていない。
また、日本でも外国から持ち込まれたサルが野生化し、日本の自然のエコシステムを破壊するため、ある自治体が駆除を計画したところ、動物愛護団体の猛烈な反対にあったことがある。確かに猿を外国から持ち込み野生化させた人間の過ちは大きいがここで猿に肩入れしすぎると、日本固有の植物や動物が絶滅する可能性もあるのである。イルカやサンゴ、猿など、人間が愛着を抱きやすい動物に保護活動の重きを置きがちだが、本当の自然保護をするためには、そのような価値観にとらわれない活動をするべきではないのだろうか。皆さんはどう思いますか?